商店街概要

■ JR豊岡駅より東へ約800mに及ぶ北近畿最大級の長い商店街。

■ 組合員数220名、店舗数150店舗。(2008.4現在)

■ 平成17年4月、旧アーケードを改築し、「豊岡一番街」から「サンストークアベニュー」と名称を変更。

明治42年(1909年)7月10日、五荘村高屋地区内に山陰鉄道豊岡駅開設

明治2年(1869年)11月に「内国鉄道布設ノ議」定まり、後の東海道本線ルートを中心に全国に鉄道網を伸張する構想が建てられた。
25年6月の「鉄道敷設法」の公布によって各地の鉄道敷設運動は高まり、当地方では、播磨・津居山間の本州横断ルート、現行の宮津線に近い京都・舞鶴・豊岡・鳥取を結ぶ山陰ルートを中心に地域ぐるみの運動が展開された。
結局、播但線と山陰線が和田山で合流し豊岡に達したのは42年のことで、宮津線の開通は昭和4年から7年間に及んだ。

豊岡駅の開業までは、後に駅前通りと呼ばれるに至った永井通は、特に改修される事も無く開業後の交通量に耐えたが、一ヶ月経過して荒れ果てた。
43年に改修されたものの44年1月11日付けの「但馬新聞」は「言語に絶する悪路、旅客・人夫・車夫に至るまで困惑」と報じている。

大正10年になって駅前通りについで豊田町と宵田町の道路がアスファルト舗装されたが、それでも「山陰道にて始めて」という。
駅前通りとその周辺の永井地区の土地は、鉄道開通後に急速に発展し地価の高騰も期待されたが、予想に反して事態は進展せず、五荘村に属した駅前地区は大正元年に民家37戸を数えたに過ぎず、駅前通り全域を通じての商店などの定着は大勢としては大正5,6年からである。
駅通りを中心とする街区が豊岡町の主要市街地を構成するようになるのは、耕地整理が完成した後のことであった。
北但大震災

大正14年5月23日午前11時9分57秒、豊岡・城崎方面に烈震があり、神戸測候所豊岡出張所の地震計は第一震で破損した。
始めは水平動、次に上下動となって多数の家屋が倒壊、間もなく火を発し、火は24日未明にに及んだ。
震源地は円山川河口数マイルの深さ50kmのところ、マグニチュード7といわれている。
被害は人家・人口が密集する豊岡町で大きかったのは当然であるが、総戸数・総人口に対する被災比でみると、みなと地区が最大で豊岡町がそれに次いでいる。
隣接する城崎町の被害比は被災地区内では最大であるが、温泉街としての特殊事情によるものであることは言うまでもない。








豊岡町の災害は、港村・城崎町と同様に,火災によって増幅されたもので、初夏の乾燥した空気に加えて北西の風が加わり、昼食の炊事用の火と推定される原因で各所に火災を発生、町北部の小田井地区の大部分を残して町中心部に延焼して、現生田通り以北を焼き尽くした。
神武山を取り巻く旧郭内及び豊田町以南の被害は軽少で、豊岡小学校や豊岡中学校が一時的な被災者避難所・救護所として用いられた。












昭和2年4月18日
大開通りに郵便局庁舎新築落成

昭和2年6月14日
大開通りに警察署庁舎新築落成

昭和3年1月24日
大開通りに豊岡町役場新庁舎落成
(現在の原形)









伊勢湾の台風被害

昭和34年9月26日、東海地方を襲った台風15号は5,000人以上の死者・行方不明者を出す被害をもたらした。当地方も大きな被害を受け、市街地の大半が浸水。床上浸水3,332戸。
その後、昭和36年には第二室戸台風の来襲と、台風による被害が続いた。












商店街の復興

数々の困難を乗り越えにぎやかに人が行きかい、商店街の元気が戻ってくる。
このころは道路の中央を堂々と自転車が通り、三輪トラックやリヤカーなどと、時代を感じさせる。













豊岡駅通商店街振興組合設立

昭和45年(1970年)6月24日、「豊岡駅通商店街振興組合」を設立し、豊岡駅より東西約800mの両サイド(全長約1600m)にアーケードを設置。
毎年記念イベントを開催し、後の「一番街まつり」と名称を変更。